御祭神・御由緒

御祭神(御本殿におまつりされている神様)

高嶺牛頭天王大蛇退治図
高嶺牛頭天王大蛇退治図

天王さんと呼ばれ親しまれている高嶺神社は、古くから幅広い信仰をよせられてきました。
それは当社の神様たちが人々の生活のあらゆる面に御神徳を及ぼし、小さな願をも大きく成就するためご加護されているからです。

須佐之男命(すさのおのみこと)牛頭天王(ごずてんのう)

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)の子で、天照大御神(あまてらすおおみかみ)月読命(つくよみのみこと)とともに三貴子(さんきし)といわれ、 日本神話で重要な存在の神です。
八岐大蛇(やまたのおろち)退治伝説は有名ですが、当地にも同様の伝説が残されています。牛頭天王は東洋的な呼び名で、仏教的色合いもうかがいしれます。

足那豆乳命(あしなづちのみこと)手那豆乳命(てなづちのみこと)奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)

大蛇退治をなしとげた須佐之男命が結婚したのが、大蛇の難より救われた奇稲田姫命で、手那豆乳命・足那豆乳命はその両親です。

御由緒

高峯山上郡の町を流れ下る千種川、その川面に夕映えの影を写す上郡大橋に立つと、紅色の空を背景に形の整った山のシルェットが正面に浮かびます。 それは周辺の山とは形容が異なり、独立して、左右対象のバランスのよい形で、まるでコウモリが羽根を広げかけたような、大変面自い形をしています。
誰もが一目見たとき、あそこには何かあるのではないかと思うでしょう。そうです、その山が高峯山(たかみねやま)と呼ばれ、頂上に高嶺神社が祀られているのです。 かつては、徒歩で登山し参拝するしかなかったのですが、現在は車での参拝道が境内まで通じ、楽に参詣していただけます。

さて、高嶺神社は今を溯ること千年余りの昔、平安時代の中頃天禄3(972)年3月23日勅命(天皇の命令)をもって祀られたのです。 それは、当時この地方(播磨国)に流行病がはやり、手立てもなく死に至る人々は数知れないという状況が続いていたある時、毎夜毎夜天から光が降下し、
有明山(ありあけやま)(元祭祀関係地)から光が立ち上り、それらが相競うように明るさを放っていた。人々は不思議がり、貴さ、有り難さを感じる人々は利益を受け、 侮った人々は災いを受けた。やがて光りは『神田柳田森(かんだやなぎだのもり)』に着いた。

この不思議な現象を国司は朝廷に届け、天皇が調べさせたところ「天竺摩詞陀国(てんじくまかだこく)牛頭天王(ごずてんのう)(須佐之男命)が当地の鎮守として鎮まれた。痛気を払い、 民草を救わんとする兆しである。」との御託宣を得て、天皇が当地に祀らしめた。それからは、蔓延していた流行病は治まり、人々は正常の生活に戻ることができたのです。
そして、勅願所として祭祀が行われたのですが、やがて柳田森から高峯山の山頂へ遷され『高峯山牛頭天王』と称し祀られるようになりました。

その後、後一条天皇の時代(萬寿2(1025)年)に勅命で特別な大祭が執行され、60年後の応徳元(1085)年、神託により萬寿の旧儀を起こし、
これより千支の乙丑年に大開帳といわれる臨時大祭が行われるようになりました。これらは災害、疫病、事変などによる国家・地域の安全を祈ることに起因したものでした。

時代は下り、足利尊氏が九州下向の際、当社に再起勝運を祈願し、達成したことにより、社を再興し、七堂伽藍を配し五十石を寄進しました。以後、赤松円心、 山名持豊、池田輝政、浅野三代など武将、大名の崇敬を厚く受け、播磨・備前・備中・因幡をはじめ遠方の人々にも『天王さん』と親しまれ、信仰を寄せられながら、 隆衰の波の中で現在に至っております。